(イランで行われている大きな行事からちょっとした小さな行事まで、紹介していきたいと思います。)
今年は10月27日からラメザンに入りました。
ラメザンは日の出から日没まで何も口にしてはいけない月です。
病人や子供、妊娠又は授乳中、生理中の女性、そして9日以内の旅行者は免除されるそうです。
といっても、食事する時には、断食している人からなるべく見えない所でとるのがいいでしょう。
「ラメザン」、ただ飲食がいけないだけ、ということではないそうで、それ以外にも、嘘を言っちゃいけない、S○Xもいけないとか、もっと奥が深いものらしいです。
そして、ラメザンの目的は、断食が身体に良いとか、いろいろ制限される事を我慢することで、精神が強くなる、ということがあるようです。
今日は日の出を知らせるアーザンが朝4時50分位に、そして日没を知らせるアーザンは夕方5時半過ぎに聞こえてきました。
(2003年10月29日記載)
長男の話によると幼稚園でも「断食しているから。」と言う理由で、おやつを持ってこない子もいるようです。まだ5~6歳なのに、びっくりしてしまいました。
日本にいる友達が教えてくれた情報によると、「断食は、医学的にも、血液中の脂肪分をとり、腸内の細菌や乳酸の有害な働きをおさえるなど、健康にもよく、食べ物のない貧しい人々の不幸を体験し、貧しい人々に対して思いやる心も養うようにするためもある」そうです。
(2003年11月22日追記)
ラメザンの23日目の夜、寝ないで夜明けまで神様にお祈りすると、今まで自分のやった悪い行いが許されると言われていて、その為、翌朝は学校や幼稚園などは2時間遅れで始まるようです。
いつも7時ごろ長男を迎えに来る幼稚園の車は、今日は9時半頃に来ました。
(2003年11月18日記載)
「ゴッツの日」と言う意味ですが、ゴッツとはパレスチナに昔からある神様の家のことです。
毎年、ラメザンの最後の金曜日には、イランのあちこちの地域で、パレスチナとイスラエルの戦争を反対するデモ行進行われているようです。
昨日はその「ゴッツの日」で、デモ行進の様子が、テレビで放映されていました。
(2003年11月22日記載)
ラメザンが終わって、次の日は「エイデ フェトゥル」という、イランで1年のうちに何回かある、お正月の一つです。この日には、貧乏な人に、自分達の食べている1日分のお米やパンなどをあげたり、又は、その人達の為のお金をお坊さんに渡したりする習慣があるようです。
この日は、うちには親戚の人が来て、「エイデ モバラキ(おめでとう)。」と言っていました。
(2003年11月28日記載)
2004年2月22日からモハッラムに入りました。
モハッラムは、3番目のエマムのホセインが亡くなったイスラムの月です。
イランの大きな行事の一つで、今日2004年3月2日は、「アシュラ」という日で、ホセインが亡くなった日です。今日、義母や親戚に連れられて外に出ると、たくさんの人が道に出ていて、大きな通りから、少し小さな道に入るところに、白い布で作った小さなテントのようなものが数個作って置いてあり、その周りを囲うように、たくさんの人で混雑していました。赤い服に帽子を被った、昔の兵隊のような格好をしている男性が2人いて、そのテントのそばで何かやっていました。しばらくそこで人ごみの中、私達は立って見ていたのですが、男性(エマムホセイン?)の首を槍で刺した絵を持っている人が、その絵を上に上げて、皆に見せていました。誰かが、テントに火をつけて燃やしていました。皆そばで見ようとするので、危ないです。
そのうちに、男性の集団がそのテントのあった場所にやってきて、「ホセインが殺された。ホセインが殺された。」と言うような歌を歌って、リズムに合わせて自分の胸を手で叩いていました。子供も真似してやっていました。そばにいた年配の女性は泣いていました。
そして、なぜか、女性達は燃え残ったテントの切れ端を拾って、分けていました。家に持って帰るようです。
(アロマットの写真:真ん中で一人だけで担ぎながら歩きます。他の人は周りで、倒れそうな時に助けているようです。何100kgあるのか分かりませんが、すごく重たいそうです。)
(2004年3月2日記載)
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約10ヶ月年振りに更新しました。
日付を西暦の他、イラン暦も記載し、イスラム暦に関係のある行事はイスラム暦も記載することにしました。
今日は、イランで1年に何回かあるお正月のうちの一つで、エイデ ゴルバンの日でした。イスラム教のお正月で、今回はイランの休日の金曜日に当たってしまいましたが、今日が平日なら、お休みになっていたそうです。イランは日本みたいに振り替え休日はないんですね。
義母は「お正月おめでとう。」と言っていました。
この日は、「ハジ」と呼ばれるサウジアラビアのマッケに行ったことのある人が、羊を殺して、そのお肉を貧しい人に配るんだそうです。毎年、約200万人の人が、マッケに行っているそうです。
(2005年1月21日)(イラン暦 1383年 bahman 2)(イスラム暦 1425年 zi-haje 10))
今から26年前のバハマンの12日に、フランスに亡命していたホメイニ師がイランに戻り、22日にイスラム革命が勝ちました。その11日間を記念して、バハマンの12日から22日までが、「ダへイエ ファジル」という日になるそうです。
この11日間は、その革命の時の映像をよくテレビで見せています。そして、この革命を記念してなのか、ファジル国際映画祭が、この時期に毎年開かれているようです。
(2005年1月31日~2月10日)(イラン暦1383年 bahman 12~22日)
革命記念日(バハマン22日)
この日は、イスラム革命が勝利した日で祝日になります。この日は、革命の時のように、大勢の人々が集まり、街を行進します。今年は、この日は雪でしたが、それでもたくさんの人が、行進している様子を、テレビで見せていました。
夜は、打ち上げ花火があるようです。今年は、バハマンの21日からモハッラムになってしまうということで、20日の夜に打ち上げ花火が9時から15分間ほどありました。場所によっては、色んな方角にたくさんの花火が見られたことでしょう。私は、屋上から、南と北の方角に花火を見ることができました。どの花火も、1分間隔くらいに一つずつ打ち上げられているようでした。私が見たのは、まん丸の花火だけでしたが、友達は違う形の花火も見れたようです。花火を見ているとき、「アッラーホー アキバル!」と叫んでいる子供達の声が聞こえてきました。
そして、革命記念日の夜。もっと大勢の「アッラーホー アキバル!」と言っている人々の声が聞こえてきました。
(2005年2月10日)(イラン暦 1383年 bahman 22日)
モハッラム月に入りしばらくすると、夜、家の前の大通りでは、チェーンの束を持って行列を作って行進する人々の姿が見られるようになります。先頭には、黒、白、緑、赤等の色の旗を持った子供達が歩き、その後ろには「アロマット」という横長の金属でできた物の上に羽がたくさん飾られている重たいものを担いでいる人、そして、大きな太鼓を打っている人、マイクを持ちエマムホセインの死を悲しむ歌を歌っている人、チェーンの束で自分の背中を叩きながら歩いている大勢の人達、その中には、3、4歳の小さな子もいます。
そして、エマムホセインが亡くなった日のアシュラーと呼ばれる日のお昼には、クライマックスを迎えます。今年、この日は、とてもいい天気で、夏のような暑い日差しでした。夫の話では、アシュラーの日は今までに雨が降ったことはないのだそうです。家を出ると、外は凄い人でした。今回は、日本人の友達と一緒に見に行きましたが、友達も驚いていました。道でやっている演劇のようなものを見に行きました。エマムホセインが亡くなった悲しい場面で、演劇に参加していた人で、こっちを見てにやけている不謹慎な若者もいました。外国人を見てうれしかったのか?エマムホセインのテントの切れ端を若いイラン女性がくれて、友達とそれを半分に分けて、記念に家に持ち帰りました。
画面中央には、燃やされているエマムホセインのテントが・・・
子供も行事に参加しています
<追記> 初めてヘイヤットに行った日
今回は、アシュラーの3日程前に、初めてヘイヤットという所に行った。
ヘイヤットとは、この時期に人々が集まる場所で、そこでは、エマムホセインが亡くなった時の話をしていたり、ご飯が配られたりするようだ。私は義母に連れられて、長男と一緒に行った。
そのヘイヤットは、ある建物の地下にあった。階段を下りて、部屋の中を見ると、たくさんの人が部屋に座っている。自分達も靴を脱いで手に持ち、部屋に入り、何とか隙間を見つけて、座る。エマムホセインの亡くなった時の話がテープで流されていた。しばらくすると、そばにあったドアが開き、急に部屋にいた人がそのドアに殺到した!自分達は、立ち上がり、そこから脱出しようとするが、身動きできない。長男はつぶされそうになる。どうやら、ドアの外では、ご飯を配っているらしい。
やっとのことで、そこから脱出し、部屋の奥に行き、また座る。まもなくすると、ソフレ(ご飯を食べる時のシート)がひかれはじめ、料理が並べられる。ゲイメというイラン料理だった。時間は夜の10時頃。私達は夜ご飯は食べてきたので、「いりません。ありがとう。」と言ったのだが、何度も持ってくるので、とりあえずもらってソフレに置いた。長男は「全部食べられないよ。」と言っていたのだが、食べ始めたら最後まで食べてしまった。美味しかったらしい。義母が私にも食べるように勧めたが、結局義母と私は食べずに持ち帰った。
<感想>
ヘイヤットの中は人がたくさんなので、冬なのに、とにかく暑かった!中は女性だけなので、上に着ていたコートを脱いだが、それでも暑かった。ヘイヤットに行く時は、マントの下は薄着で行きましょう。
イランの年の最後の水曜日の前日は、「チャハールシャンベ スーリー」という日で、夜には、爆竹や花火、焚き火をして遊んでいる人々の姿が多く見られます。たき火の上を跳んで「無病息災を願う」こともするそうですが、子供や若い人達は、ほとんど爆竹や火遊びを楽しんでいるようです。
この日の夕方、私は子供達を連れて公園に行くと、長男の友達(小学4年生)がいて、いつものようにサッカー遊びを始めました。疲れて休んだ後、どこからかその友達が紙切れを拾ってきて、マッチをほしがっているので、私が持っていたマッチを渡すと、長男とそこにしゃがみこんで紙切れに火をつけ始めた。長男が、あちこちからゴミを探して持って来ては、それを燃やしている。「公園のおじさんに怒られるから、もうやめて。」と言ってやめさせたが、今思うと「チャハールシャンベ スーリー」だったから火遊びしたかったのか・・・。
私が子供から預かっていたタラッゲ(爆竹)を出して見せると、長男と友達は喜んでやっていた。帰り際に、その友達の母親も来て、タラッゲを自分の子に渡した。私がマッチを渡すと、その子は、コンクリートの少し段になっているところに、タラッゲを並べて火をつけ、「バン!バン!バン!」と立て続けに鳴らした。遊び終わって、帰ろうとすると、物凄い爆発音が遠くから聞こえて、びっくりした。
夜には、自分の家の屋上で親戚の人と家族一緒に花火と爆竹で遊んだ。屋上に出た時に、ふと、大きな火が視界に入った。道路の方を見ると、大きなたき火が道の真ん中に数十メートルおきにいくつか見える。そして、時たま、物凄い爆発音とともに、その炎が、より一層大きく燃え上がっていた。去年も、車が通れないくらい、道路の端から端まで火が燃え広がっていたのを思い出した。
家にいても、爆発音と共にその振動が伝わり、路上駐車してあるどこかの車の防犯システムが作動、ピコピコと音を立てていた。夜のテレビのニュースによると、この行事のため、これまでに2人の人が亡くなったそう。火傷など、けがした人も多数いるらしく、テレビで大人や子供の痛々しい映像を映していた。
こうして、イランで一番刺激的な最後の行事は幕を閉じた。
(2005年3月15日)(イラン暦 1383年 esfand 25日)
イランのお正月の13日目が、「スィーズダ ベダル」という日で、「13日を過ぎる」という意味と、「自然の日」という意味があるそうです。この日は、家にいてはいけないと言われていて、皆外に出かけます。
この日、私はおにぎりを作り、義母と姪も誘って2時頃6人で出発。行く当てもなくとにかく車に乗り、家を出た。道路は凄く空いていた。たまに、麦やアダスの苗が落ちているのを発見。イランでは、このような苗をこの日まで各家庭で育て、この日に車の上に乗せて走るのだ。だからこの日は、車の上に苗を乗せている車をよく見かけることでしょう。
しばらく車を走らせていると、大きな公園があった。公園の周りは、たくさんの車が止まっている。公園内も芝生の上にシートを引いて座っている人々、遊んでいる子供達でいっぱいだ。自分達もここで座ろうと思ったのだが、長男が、家の近くの大きい公園が良いと言い、家の近くまで戻る。そこはもっとたくさんの車、車、人、人で溢れていた・・・。
この後、自分達がどうしたかは、ご想像にお任せ。
(2005年4月2日)(イラン暦 1384年 farvardin 13日)