自己紹介
ハンドルネーム=セタレ(ペルシャ語で星の意味)
イラン人の夫と息子2人の家族4人でイランに5年程滞在し、2008年に帰国しました。
私の見たありのままのイランをこのホームページで紹介したいと思います。
初めてイランを見た日
(昔のことで忘れている部分もありますが、ここで紹介したいと思います)
私が初めてイランを見たのは1996年10月。
この日、一人不安な気持ちで日本から飛行機に乗り、結婚を約束した彼の元に向かったのでした。
彼は日本でオーバーステイしていたため、帰国してから一年以上は日本に来る事はできないので、私から行くしかなかったのです。
成田からは割と空いていて、日本人は見当たらない。
私の席は窓側で、私からひとつ離れた席にイラン男性が座っていました。とても感じのいい親切な人で、私は覚えたてのペルシャ語で少し話をしたりして仲良くなり、このイラン男性のお陰で機内では不安が消え、楽しく過ごす事ができました。
そして飛行機は一旦北京に降り、たくさんの人が乗ってきた。
ほとんどイラン男性のようで、イラン女性らしい人も乗ってきて頭にスカーフをしている。
何か機内のアナウンスで、スカーフをつけるように言っている様な気がした。
私は急に髪を見せている自分が恥ずかしくなり、カバンからスカーフを出して頭に被ったのだった。隣の男性が、そんな私を見て微笑んでいた。
イラン人が大勢乗ってきたことで、もうイランにいるような気がした。
そして飛行機は再び北京から飛び立ち、日本を発って約12時間後。私は飛行機の窓から初めてのイランを見たのだった。
時刻は夜の10時頃。窓から外を眺めた私の目に映ったものは、暗闇に散りばめられた宝石のように輝いているイランの首都テヘランの夜景でした。この美しさは今でも忘れません。
そして飛行機を降り、入国検査のところで仲良くなったイラン男性と離れてしまい、また不安になった私。荷物検査のところではすごい人だ。手前のテーブルに置いてあった紙を一枚もらい、必要事項を記入し、青いランプの方に並ぶ。
係りの人が、前に並んでいる人の紙を見て何か言っている。
私にも見せるように言われ、何か言われたがよく分からない。
なんだか右に細い通路があり、そこから荷物検査を受けずに出て行く人がいる。
(ここで待っていたらいつ出られるか分からない。私も荷物検査必要ないよな~。こっちにちょっと行ってみよう。)と思い、そっちに荷物を持って向かう。
出口に2人ほど係りの人がいた。その人にさっきの紙を渡す。出口の向こうには、ガラス張りの壁にたくさんのイラン人の顔がぎっしりと並んでいる。自分の家族や親戚を迎えに来た人達だろう。あまりの人の多さにびっくりした。
大きなたくさんの目が私を見ている気がした。(こ、こわい・・・)そう思ってまもなく、係りの人からOKがでて、そばにいた黄色の制服のようなものを着た男性が、2つある私のカバンを持って歩き出した。どうやら外まで運んでくれるらしい。制止する私の声も聞かず?その人は人ごみの中をどんどん歩いて行く。
そしてその人ごみの中を抜け、しばらく歩いたところでその人は止まった。私はその人に「メルスィ」とお礼を言い、その人は立ち去ると思ったのだが、私から2m位離れた所に後ろ向きに立っていて、動こうとしない。(もしかしてチップがほしいのかな?)イランにチップの習慣があることを知らなかった私。それにイランのお金はまったく持っていなかったので、どうすればいいかも分からずに彼を待つことにした。
しばらくすると、それを見ていた別の若い男性が来て、その黄色の制服の人に話しかける。訳を知った男性が私のところに来て英語で言う。「なぜこの人にチップを渡さないのか?」という事を言っているらしい、「日本円しか持っていません。」と私も英語で答えると。「それでもいいよ。」と言っているので、お財布から100円を出して黄色い制服の男性に渡した。すると若い男性が、「これっぽっちか!」と言うような態度をとった。
私は内心(どうして?これでは少ないっていうの?)と思ったが、その黄色の制服の男性と若い男性は立ち去って行った。
しばらくそのことについて考えていたが、それにしても彼は遅い・・・不安になってきた私。
季節は秋。少し寒くなってきた。近くを通りかかった子供達が、「ジャポニ。」とささやき、憧れの目で見ている気がした。タクシーの運転手らしき人が来て、何か話しかける。タクシーは要らないかといっているらしい。「ナァ。」と答える私。
もうどのくらい待ったのか?彼はまだ来ない。話しかけてくるのはタクシーの運転手ばかり。不安で涙目になってしまう私。電話のかけ方も知らないし、とにかく彼を信じて待つしかない。
そして、ひたすら待って約1時間後。私の目の前に急に彼が現れて、走って私を抱きしめた。ほっとする私。姪っ子が花束を私に渡した。話を聞くと、彼は空港の中を探していたらしい。
そして車に乗って約30分後、彼の家に着いた。車から降りると彼のお母さんが出迎えてくれて、生卵を私の頭の周りでぐるぐる回し地面に投げている。何かのおまじないようだ。彼のお母さんは大変信心深い人らしい。そして家には彼のたくさんの親戚の人が待っていて、私を歓迎してくれた。日本だと信じられないことである。自分の親戚のお嫁さんになる人の為に、こんなににもしてくれるなんて!
すっかり疲れてすぐにでも休みたかった私だが、私の為に来てくれている人達のことを考えるとそういうわけにもいかずに、しばらく座ってイランの人々の温かさを感じていたのだった。
(2003年11月15日記載)
彼はオーバーステイではありましたが、強制送還ではありませんでした。
私と付き合い始めてまもなくしたころ、彼は趣味でやっていた合気道からの帰りに、初めて警察の人に声をかけられたそうです。帰り道で、私と別れた直後の出来事でした。彼は、警官を自分の家に連れて行って見せ、その後、警察署に連れて行かれたそうですが、警察署でいろいろ質問をされた後、「貴方はいい人だから。」と警察の人が見逃してくれたそうです。
彼は、日本で真面目に働いていたし、会社では、パートとして働いていましたが、普通の時給の倍以上の金額をもらっていた相当な技術者でもありました。警察は彼の普段の真面目な行いを認めてくれたのでしょう。警察署の方に、感謝しています。もし、この時に、彼が強制送還されていたら、まだ、あまり彼のことを知らなかった私は、彼を追ってイランには行っていなかったでしょう。
その後、しばらくしてから、彼はこの日にあったことを私に話してくれました。
そして、今度は、彼は私と一緒に公園にいた時に、警官に話しかけられました。この時には、2、3質問された後、警官は私の方をチラッと見て行ってしまいました。多分、私がいたから連れて行かれなかったのでしょう。こんなこともあるので、心配で、帰りは私が彼を家まで送ったり、彼の家に遊びに行っても、帰りは彼に送ってもらうのを断ったりしていました。
私と出会う前には、もうそろそろイランに帰りたいと思っていた彼でしたが、私と会ったために、帰れなくなっていました。私達は、その後、結婚を約束したものの、私の親がまだ早い(付き合い始めて数ヶ月だった)と反対したので、彼と会ってから1年後の10月まで待つことに・・・。
彼は、「自分で帰りたい・・・。」と7月の下旬に一足先にイランへ帰国。そして、私が、10月に彼を追ってイランに一人で行くことになったのでした。
彼は日本にいた時に、私に次のようなことを話していました。
「一部のイラン人の悪い行いで、イラン人のイメージが悪くなっている。日本人だって悪い人、いい人いるでしょ。イラン人もそうだよ。ただ、悪い人が目立っているだけだよ。」と。本当にその通りですね。だから、彼は、イラン人のイメージを悪くしないように、がんばっていたようです。時には、自分の感情を抑えることもしたでしょう。イランに来て、彼の行動を見て、日本で大分我慢していたんだろうな、と感じることがあります。
今では、イランに来ている日本人である自分が、日本人のイメージを悪くしないように、と気をつけています。
(2005年1月11日)
私達家族は、イランではテヘランに住んでいて、私達の下の階に義母と姪っ子が、上の階には義妹家族が住んでいました。
買い物は、ほとんど毎日義母が「何かほしいものない?」と聞いてくれて、野菜など買ってきてくれていました。パン、牛乳、卵、バター、生クリームなどのちょっとしたものは、当時7歳の長男が買ってきてくれて、お肉やフルーツなどは、夫が買ってきてくれていました。私は買い物に行く必要がないので、かなり楽?な生活でした。